2011年12月10日土曜日

平河町ミュージックス第12回公演 山田百子 古部賢一 ふたつの木のひびき  を聴いた

公演当日の通し稽古に、
二人は、「A Crow」の作曲家 近藤譲を迎えて、
ひとつひとつの音符の意味をていねいに確かめた。
ソプラノサックスとフルートのために書かれた原曲を
ヴァイオリンとオーボエで奏でる世界初演のこの日のために。



















開演
テレマン「2つの楽曲のためのカノンによる6つのソナタ」の
おだやかな音色に、
聴衆は一気にふたつの木のひびきに呑みこまれていく。
そして
雅楽を彷彿とさせる不思議な旋律、近藤譲「A Crow/烏」 。
林光「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ」とつづく。












後半の冒頭
古部が巧みな話術で楽器を説明したあと、
ブリテン「オウィディウスによる6つのメタモルフォーゼ」のストーリーを
1階の客席で山田がひとつずつ朗読し、
中2階の古部がオーボエでそれらを幻想的な音楽に変容してみせた。





モーツアルト「歌劇 『魔笛』 より」
作品のストーリーを、読み解きながら、
二人で奏でる。








アンコールに、ドンジョバンニなどを弾き終えたあと、
「いろいろなことがあった一年でしたが、
来年が良い年でありますように」と語り、
さいごにクリスマスメロディーを添えた。

聴衆は静かに激動の一年を振り返り、
ふたつのひびきの余韻に浸った。


卓越したそれぞれの技と、
夫婦の絶妙の間合いで生まれる美しい旋律は
この二人にしか紡ぎだすことのできない
貴重な「ふたつの木のひびき」なのだと思った。


平河町ミュージックス実行委員会ワーキンググループ   木村佐近

2011年11月19日土曜日

平河町ミュージックス第11回公演 江原千絵  極東の列島からみはるかすヨーロッパの東  を聴いた







ブダペストにある恩師コヴァーチ・デーネシュの墓前で、
江原千絵が生前伝え切れなかった感謝の言葉を語りかけると、
「君はいつバルトークを発表するんだ?
と言う先生の声が聴こえたような気がしたのです。
先生が弾くとバルトークは難解な曲ではなく、素朴な歌に聴こえます。
折角先生に背中を押されたのですから、
私も歌に聴こえるように弾きたいです。」
江原がコンサートに先立ち、寄せた文章である。



公演当日の昼下がり、江原は、念入りに響きを確かめていた。
3時間近く、1度も休まず、譜面に向き合い、弾き続けた。
欧風家具を探し求めてロゴバに出入りする人々の往来にも、
江原の集中力は途切れなかった。





開演。
聴衆の目が江原の絃を見つめた。
弓が動いた。
白い空間に沁みこむバルトークの世界。
不思議な音の組合せが素朴な歌のような響きを生み出す。




休憩のあと、
クルターク・ジョルジィ「サイン、ゲーム、メッセージ」
高橋悠治「七つのバラがやぶにさく」とつづく。
高橋は、中二階で聴いていた。
終演後、そこから降りてきた高橋は穏やかな笑みをたたえていた。
偉大な作曲家の心を動かしたのだ。
最後に、
ハインリッヒ・イグナーツ・フランツ・フォン・ビバー「パッサカリア」
でコンサートを静かにしめくくった。

アンコールを弾く余裕がないほどのプログラムを終えた江原に
小沼純一が訊いた。
オーケストラアンサンブル金沢の第二ヴァイオリン主席奏者と
聴衆の前で初めて弾くソロの無伴奏ヴァイオリンの違いについて。
「オーケストラの首席奏者は、
信号のない3車線の交差点で交通整理をしているようなもの。
ソロで弾くことは、
誰も助けてくれない孤独でした。」
江原の言葉にその重圧の中を弾き抜いた安堵感が漂う。


江原はプロフィールの中で、
「芸人として、また母として、積極的に活動中。」と自身を表した。
言葉の節々に、気品の漂う風貌からは計り知れない
人としての強さが垣間見え、その語り口にも魅了された。
そして、
「素朴な歌に聴こえるようなバルトーク」は、
極東の列島からみはるかすヨーロッパの東に眠る恩師の耳にも
きっと届いたに違いないと思った。


平河町ミュージックス実行委員会ワーキンググループ   木村佐近

2011年10月22日土曜日

平河町ミュージックス第10回公演    松田美緒・北村聡  CANTO LIBRE  を聴いた

公演の前夜、
初秋の肌寒さを感じながら、
セーターに身を包んだ松田美緒と
バンドネオンを抱えた北村聡が
空間の響きを確かめていた。













公演当日、
ガラスのそとは、小雨模様。
北村のバンドネオンの音色が
湿り気をおびた空気を震わせた。
松田のうたが始まる。





何と、松田が客席を背にして、
ガラスの外に向かって、うたい始めた。
こえの粒が、ガラスに跳ね返り、
白い空間に舞い散った。
不思議なひとときが流れた。





「作りすぎたり、リバーブをかけ過ぎたりはしたくない。
自然に聴き手に届いてほしいと思っている。」
そう語っていた松田は、
椅子に身をゆだねて、なめらかにうたう。





休憩時間のざわめきが静まり、
中二階の上から、うたごえが降りてきた。
自然で美しい アカペラ が、
空間を満たした。






バンドネオンを愛おしく抱えながら
北村が小沼純一の問いに答える
「バンドネオンの魅力解説」も
聴衆をひきつけた。






そのバンドネオンとともに、
北村が中二階に移動して弾く。
さらに、
松田がそれに、こえを重ねる。






中二階の北村と、1階に降りた松田の
響きのやりとり。
どの場所でうたうこえも、
しっかりと空間を響かせる。






最後のアンコール曲は、
聴衆の中をめぐりながら。
聴衆の目と耳が、
歌姫を追う。







松田は、世界中を駆け巡り、
そのうたごえには、
彼女が旅する様々な地域の魂が宿ると言われている。
あっけらかんと、笑う素直な笑顔の向こうにも、
その魂を垣間見たような気がした。
そしてまた、ここで、そのうたごえを聴いてみたいと思った。


平河町ミュージックス実行委員会ワーキンググループ   木村佐近

2011年6月11日土曜日

平河町ミュージックス第9回公演    CANTUS カントゥス  かさなる声“ガーリー”な声  を聴いた

静けさの中に、歌声がそよいだ。
モーリス・デュリュフレ作曲「トータ・プルクラ・エス/すべてが美しいお方」
さわやかな風が吹き抜けたようだった。













グレゴリオ聖歌「アヴェ・マリア」がはじまると、
ひとりひとりが四方に歩き出す。
白い空間に点々に散らばり、かさなりあう声。
今までに聴いたことのないゆらぎのある響きに
鳥肌がたつ。



MIHO、HIRO、RINA、YOU、MAKA、MIWAが椅子に戻り、
メンバー紹介。






まだ幼い頃に東京少年少女合唱隊で出会い、大人になり再会。
この場所にいることの不思議を感じる。


グレゴリオ聖歌「キリエ」
透き通った歌声が白い空間を支配した。
目を閉じれば、おおきな教会の中にいるようだ。






グレゴリオ・アレグリ作曲「ミゼレーレ」
交互にうたいかわされる二つのパートが
中二階につづく階段にならんで
立体的な響きを紡ぐ。






中二階から歌声が降りてくる。
チャールズ・ヴィラーズ・スタンフォード作曲「ブルー・バード」
聴衆の多くは目を閉じ、歌声に身をまかせた。








闇のなかに2つの明かりが灯され、後半がはじまる。
ペロティヌス作曲「ヴィデルント・オムネス」
幻想的な暗闇が無垢な歌声のうつくしさに磨きをかける。




カントゥスの委嘱により一ノ瀬響が作曲した「Love celestial」
リハーサルで一ノ瀬はカントゥスに語りかけていた。
「ここは、コンサートホールと違い、聴衆が近いので、
ことばのひとつひとつの音をはっきりうたおう」と。


一ノ瀬は椅子に深く体をあずけ、その音を聴いていた。






アンコールのなかでサプライズがあった。
平河町ミュージックス実行委員会のメンバー二人の婚約に対する
お祝いの気持ちがカントゥスの歌声になって響いた。






暗く内向的なイメージを伴いやすい教会音楽がこんなにも綺麗な旋律に
あふれていることを、多くの人に知ってもらうための「ファースト・ドア」
になりたいとカントゥスは語っている。
少女のまま大人になったような美しく純粋な歌声、
この歌声にのせれば、その願いは必ず叶うだろうと、
かさなる声を聴きながら、そう思った。


平河町ミュージックス実行委員会ワーキンググループ   木村佐近

2011年4月15日金曜日

平河町ミュージックス4月8日:刻みながら、包まれながら。

日常の中に音楽があり、音楽の中に日常がある。そのあたりまえのような事実をあらためて噛みしめることができたこの日。稲野珠緒さんをはじめとする4人の打楽器奏者とギターの辻さんは、さまざまな家具が置かれるロゴバという空間の見えない部分を切り出してみせた。日常的な風景をさらりと日常的に扱うかのように見せかけながら、気がつけば眼の前の机はステージに貌を変え、階段は梯子となって天に延び、床とキリムは緊張感をはらんで輝きはじめる。そうした転回する風景のなかから隠れていたリズムとハーモニーを掬い出し整えたのは、稲野さんたちの見事な技だったのか、ジョン・ケージや高橋悠治さんたち作曲家の鋭い耳であったのか、それともその場にいる観客の身体であったのか。

そのようにして人が協働してつくりだした新たな価値は、日常を少しばかり刺激し、甘美な香りを残していった。どこにも甘いメロディなんてないけれど、いや、ないからこそ生まれた特別な物語。日常のなかに非日常というものが姿を現わしたということがわかる。でも、考えてみれば日常とは非日常の連続に他ならないものであった。だからこそ、日常をきちんと生き、耳を澄ますことの大事さを想う。音楽が指し示す意味には重いものがある。

平河町ミュージックス実行委員長 佐野吉彦

2011年4月9日土曜日

平河町ミュージックス第8回公演 稲野珠緒  打つ“うた”、叩く“うた” を聴いた


木片を打ち鳴らしながら、






稲野珠緒、斎藤祥子、久米彩音、角銅真実が

中二階に架けられた階段に並んだ。

スティーヴ・ライヒの「木片の音楽」が

白い空間を小刻みに揺らす。

中二階の上からリズムが降る「ピアノ・フェイズ」のあと、

大きなテーブルに向かい合った稲野たちが、

手のひらを、打ち、叩く。

ティエリー・メイの文字通り「テーブル・ミュージック」。


日常の手のひらのしぐさから音楽が生まれる。



辻邦博のギターが加わる。

ルー・ハリソンの「ギターの為の作品集」を

弾き終えた辻が語る。

「演奏することはふつうのこと。

今の日本は震災でふつうを無くしている。

ふつうに演奏することで、ふつうを取り戻したい。」

その言葉は、ギターの余韻に重なり、聴衆の心に沁み入った。


4人の打楽器奏者の織りなす響きが、空気を変える。

ルー・ハリソンとジョン・ケージの共作による

「ダブル・ミュージック」は

多種多様な楽器からはじき出される

小気味の良いリズムが、空間に踊る。



ジョンケージの「リビング・ルーム・ミュージック」は圧巻だ。

テーブルに並んだ、カップや、フライパン、

洗濯物のたぐいまでが、

稲野たちの手で楽器に変わっていく。


続く渡邉達弘の「窓の外の色」も日常から生まれた美しい楽曲。




打楽器デュオのために書かれた「mander obedeciendo」は、

高橋悠治が

「それぞれの音色が混合せず交錯するアフリカ的合奏のかたち」

と記すように、情熱的な響き。




そして、ニコラウス・A・フーバー「クラッシュ・ミュージック」で

稲野が締めくくった。






それにしても、稲野の笑顔は素敵だ。
激しく楽器を叩くときも、強く打つときも、

稲野は体全体で楽しみ、笑みを浮かべる。

打つ、叩き、リズムを刻むことは、

ひとが古来持っている楽しみの一つ。

それを音楽に創り上げる稲野とその仲間たちから、

楽しさが美しい響きとともに伝わってくる。


今日は、元気をもらった。








平河町ミュージックス実行委員会ワーキンググループ   木村佐近

2011年3月2日水曜日

メディア掲載情報

タワーレコードのフリー・マガジン「intoxicate」の最新90号「東京*春*音楽散歩~音楽のある<場所>」というコラムで、平河町ミュージックス実行委員会の小沼純一が平河町ミュージックスや2011年春季公演の見どころ、聴きどころを紹介しております。会場のROGOBAの様子やコンサートの雰囲気も伝わってくると思います。「intoxicate」はタワーレコード各店にて配布されておりますので、是非、手にとってご一読ください。

また、フジテレビの公式サイト内、Fuji-tv ART NETの「Classicコンサートに行こう!」というコーナーで、2011年3月18日(金)に開催される御喜美江さんのコンサート「アコーディオン-この場所の、この空気を、ともに呼吸する楽器と」について紹介いただいております。実際に平河町ミュージックスでの演奏を聴かれている音楽ジャーナリストの山口眞子さんのコラム、こちらもコンサートの雰囲気がよく伝わってくると思いますので、是非ご覧ください。

2011年1月27日木曜日

ポスター

 昨2010年の秋、『ポスターを貼って生きてきた。』という本がでました。
著者は笹目浩之。
ポスターハリス・カンパニー代表取締役、とあります。
三沢市寺山修司記念館の副館長もされています。

本書は、笹目さんが寺山修司の芝居に出会い、
演劇の世界に携われたら、とのおもいから、
芝居のポスターを飲食店に貼るというしごとを始めて-----
との自伝的な部分が七割。
そのあとに、2つのおもしろい章がつづきます。
ひとつは「ポスターの意味」。
かんたんながらも、ポスターの歴史の概観、
80年代から90年代にかけて、演劇の世界がどう変わったか、
ポスターからチラシ、さらにはネットへと広報が変化し、
しかし、そうしたなかでもポスターならではの意味がある。
もうひとつは「ぼくが好きなポスターたち」。
横尾忠則、宇野亜喜良と粟津潔、戸田ツトム、
篠原勝之、平野甲賀、田中一光、といった名が、
状況劇場、天井桟敷、黒色テントの作品とともに登場します。

なぜこんなことを書いているか、というと、
もうじきこのホームページにもupされるかとおもいますが、
2011年春期HMSのデザインを見ることができたからです。
これまでのHMSのポスターもそうですけれども、
音楽の内容と、演奏者の名、楽器、とが
文字のかたちや配置とともに、みごとに組み合わされています。
もちろん、
先に引いた、70-80年代を中心とする演劇のとは大きく異なります。
楽器による、いわば抽象的な音がくみあわされ、
ひとのあたまのなかで、べつのかたちをつくりだす音楽は、
身体とことばが舞台に立つ演劇とは、対照的とも言えるでしょう。
いえ、だからこそ、です、
コンサートのポスターやチラシは、
音楽家のポートレートが中心になっているともいえます。
そうして具体性をだしてゆくことが多くなる。
でも、HMSのデザイン/ポスターはちがうのです。
ポートレートをだすことなく、ある意味シンプルで、抽象的にみえる。
それでいながら、よくみると、具体性がうかびあがってくる。
これは、デザイン/ポスターそのものが、
音楽のありようをあらわしている、ともいえるのではないでしょうか。

スタッフは、デザイナーの方が提供してくれるポスターを、
毎回、楽しみにしています。
そして、でてくるたびに、驚きます。
そうか、こんなことが、と。

御喜美江さんを中心とする3月のコンサートを控え、
デザインをみて、わたしは、個人的に、テンションのあがるのを感じていました。
そして、HMSのポスターは、チラシとはまた異なった何かを、
持っているにちがいない、と確信したのでした。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一