2010年12月20日月曜日

「いまどき」の“サロン”コンサート



この平河町ミュージックス、 アーティストのスタイルや選曲で、他にはあまり見られない試みをしているらしい。
私は、その道のプロではないので、斬新さについて、語れるほどは分からない。
ただ、心地よいコンサートだな、と感じている。



人によれば、これは“サロン”コンサートの類になる、とか。
コンサートの特徴や、他との差別化は、音楽的な試みにおいて、なされているのだろう。
が、個人的には、それ以上に“サロン”の方に、強いオリジナリティが発揮されている、と思ったりする。


コンサートと謳われている以上、訪れる人々は、音楽そのものに少なからず期待しているだろう。
でも、“サロン”の方には、そこまで期待していなかったりするのかもしれない。
むしろ、あまり意識せず訪れてくる。
すると、この空間があるのだ。
この空間に足を踏みいれる。
「どこが会場?」とのとまどいがあり、「何? ここで聴けるの?」と、ちょっと得した思いが湧き上がる。

そして、演奏後にふるまわれるワインは、その日の音楽にちなんだ、特別なこだわりのあるもの。
さらに得した思いが湧き上がる。


社会が豊かになり、日頃から、上質なものに触れる機会が増えた、「いまどき」の人々。
だからこそ、“サロン”コンサートで、音楽のクオリティが高くても、“サロン”のクオリティが低いなんて、中途半端。
このコンサートなら、音楽と“サロン”が、五感のすべてを満足させてくれる。
「いまどき」の人々には、もってこいのコンサートなのではないか。

平河町ミュージックス実行委員会 ワーキンググループ 鈴木寿枝

2010年12月14日火曜日

少しずつ前に進む楽しみ:6回の公演を終えて

早くも年の暮れ。春に始まった平河町ミュージックスが6回まで無事終了した。2011年の春公演のアナウンスもおこなわれ、今後も3回ごとの区切りでリズムを整えながら活動を続けてゆきたいと思う。シリーズのコンセプトについての確信は持っているものの、コンサート運営については手探りでここまでたどりついた。


春の3回は、沢井一恵さんのさまざまな箏、草刈麻紀さんによる木管と声のアンサンブル、漆原啓子さんと片岡詩乃さんのデリケートなデュオと、空間の特性を身体にしみこませたうえでの研ぎ澄まされた表現が印象的だった。秋の3回でも音楽は一層奥行きを増す。笹久保伸さんのギターのひとつひとつの音色には旅の香りがあり、漆原啓子さんと瀬木理央さんの2本のヴァイオリンには多様な歌が流れては交わり、戸島さや野さんのヴァイオリン・ソロはきりりと居ずまいを正して空間と対峙していた。


そのたびに、奏でる<音>にそれぞれの<場>が色づく瞬間を目撃する幸運を得た。主役は音に違いないが、椅子もキリムも、外を行く車のヘッドライトまでも音の連なりに参加していたような。その意味では、多様な音楽をあらわす「ミュージックス」という呼び名が、多様な動きとしつらえによって音楽が成り立つものであることを明らかにすることになっていった。そこには、毎回お見えいただいていた高橋悠治さんはじめ、聴き手が過ごしてきた人生の時間までも加わっていたような気がする。もちろん、近隣の平河町に暮らす人たちの時間までも。


手探りの運営については、反省するところがいろいろとあるので、平井洋さんと一緒に知恵を凝らし、丹精こめて手入れしてゆきたいと思う。そのなかで忘れないようにしたいのは、演奏者への敬意と親愛の情である。そして、聴き手がかけがえのない時間を過ごせるようにという姿勢と。



ところで、平河町ミュージックスには、小沼純一さんの解説文にあるクオリティ、音楽にアソートされたポスターとワインの妙味、ときおりの西川純一さんの家具やキリムをめぐるトークなど、掘り出しもののような楽しみがある。週の終わりの、ちょっとしたワンダーランド。どこから入っても、また別の知らない世界への出口が見つかるような、そんなシリーズでありたいものだ。

平河町ミュージックス実行委員 佐野吉彦

2010年12月11日土曜日

平河町ミュージックス第六回公演 戸島さや野 ヴァイオリン・ソロ モノクロームのなかに無数の色を を聴いた

「この位置が、音が隅々までいきわたる感覚がした。」
そう言いながら、
前日のリハーサルで、
戸島さや野は白い空間の中の
入口の隅で演奏することを選んだ。
公演当日、
戸島は夕暮れの光の中で、響きを確かめていた。


公演のはじまり
テレマン:「12のファンタジアより第7番」
白い空間の片隅から
ひとつのヴァイオリンが聴衆に向き合う。





戸島美喜夫:ソナタ「三つの声」の演奏に先立ち、
作曲家戸島美喜夫が小沼純一に語りかける。
もともとヴィオラのためにつくった作品を、
この日のために、
ヴァイオリン用に手を加えた時のことを。




〈遠くからの〉
〈南の島からの〉
〈まわる風の〉
3つの、抽象的でありながら、
つややかな旋律を弾き分ける。




フェルドマン:「アーロン・コープランドのために」
中二階から、短く、音の少ない、弱音が降りてくる。
聴衆は、中空を見つめ、あるいは目を閉じながら、
絃と弓から放たれる音のひとつひとつに聴き入る。



そして、バルトーク:「無伴奏ヴァイオリンソナタ」
スケールの大きな名曲であり難曲でもある作品を
たったひとりで弾く。
若く力強い才能が、難曲を弾きこなし、
親密な空間で、
聴衆を呑みこんでいく。


バルトークを弾き終え、
小沼と語る戸島の表情に、
おおきな曲を弾き終えた安堵感が漂う。





アンコールは、
バッハのヴァイオリンソナタから

渾身の演奏が静かに終わった。





虹をつくる色の平行線の一部に白い色をのせることで、
様々な色の文字が浮き上がる今回のポスター。
絃の上におく弓のあり方で、
無数の音が出るさまを表している。
そしてそこには、私達の期待も込められた。
戸島が、これからも
たったひとつのヴァイオリンから、
無数の色を紡ぎだしてくれることを。


平河町ミュージックス実行委員会 ワーキンググループ   木村佐近

2010年12月7日火曜日

第5回を終えて(3)

どうしても19世紀までの作品が中心になってしまう、
という漆原啓子に、
20世紀作品にチャレンジしてもらう-----
初年度のHMSに2回登場していただくヴァイオリニストに対し、
わたし、いえ、ほかの実行委員も、そんなおもいを抱いていました。


漆原啓子が高橋悠治作品を水戸芸術館で弾いたのは2009年7月。
それがとても良かったのです。
でも、たしかに、漆原啓子は20世紀作品を弾いていない。
そうした場面にあまり遭遇することはない。
だからこそ、とわたし、わたしたちは考えたのでした。


そして、春季にはハープと、秋季にはソロ中心と二つのヴァイオリンと
というプログラムを組んでみました。
ヴァイオリンという楽器を中心にしたとき、
どうしても、ピアノという相方がふつうになりますけれども、
「ピアノがない」というところをメリットととらえて、
べつのことをとヴァイオリニストに提案できたことも、
良かったようにおもえます。
ヴァイオリニストにとっては迷惑かもしれませんが(笑)。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年12月4日土曜日

第5回を終えて(2)

ヴァイオリンのデュオは、
なかなか接する機会がないかもしれません。
おなじ楽器なので、
どちらかが主で従になるわけではない。
だから、
ときには張り合い、ときには主を譲りながら、
「平等」のおもしろさをつくりだしてゆきます。
プロコフィエフでは「張り合い」がつよく、
武満徹では「譲りあい」が、では言い過ぎでしょうか。
武満作品では、
タイトルに「揺れる鏡」ということばがはいっていますけれども、
ふたつの鏡が、おたがいを映しあい、ずれ、たゆたう、
そんな空間と時間のさまが生まれていたようです。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年12月1日水曜日

第5回を終えて(1)



バッハとイザイ、
つながりのある2つの作品を、
バッハは中二階、イザイは一階で演奏。
しかも、
前者はバロック時代につかわれていたタイプの弓、
後者は近代/モダンの弓をつかって、
弾きわけていました。
しかも、
コンサートの最後で演奏された高橋悠治作品では、
ふつうのモダンの弓をつかいつつ、
ヘアー(馬の尾の毛)をゆるくするというやり方がとられ、
当然、音色も変化が生じることになります。
さらにアンコール、
冒頭に演奏されたバッハの作品の1つの楽章が、
今度は一階、
またモダンの弓で奏され、
音・音楽のコントラストがつけられると同時に、
コンサートとしてのひとつのかたちが完結したことを
感じさせられました。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年11月27日土曜日

平河町ミュージックス第五回公演 漆原啓子、瀬木理央  ヴァイオリンひとつとふたつ~点と線と を聴いた

公演前夜、漆原啓子と、漆原に師事する瀬木理央の、念入りなリハーサル。
漆原は、一音のひずみも聴き逃すことなく、数分毎に弓を止め、指示を出す。
「そこは、もっとしゃべるか、踊るかして。」
「譜面を追わず、空間を感じて弾いて。」
矢継ぎ早の指示を、瀬木はひとつひとつ確実に受け止めていた。


当日、開演を待つ聴衆はいつになく静まり返っていた。
照明が落とされ、白い空間が、闇に包まれる。
「バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」が
中二階の上から降りてくる。
闇に、ひとつのヴァイオリンの音色が沁み入る。






明かりが灯され、
「イザイの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番」がはじまる。
バッハの曲を、200年後のイザイが引用して生み出した旋律。
漆原の奏でる響きに聴衆が耳を傾ける。





後半、
漆原と瀬木のデュオではじまる。
「プロコフィエフの二つのヴァイオリンのためのソナタ」。
前夜からのリハーサルを経て、
二つのヴァイオリンは、まるで見えない糸で繋がっているように、
素晴らしい音を紡ぎ出した。



武満徹の「揺れる鏡の夜明け」。
ヴァイオリンがひとつからふたつになることで、
二つの楽器の間に絶え間ない不思議な緊張と共鳴が生まれ、
聴衆の五感を大きく揺さぶる。



コンサートの最終章は、ふたたび漆原のソロによる
高橋悠治の「七つのばらがやぶにさく」。
高橋が、自ら聴衆として、漆原の音を聴いていた。
演奏の後、高橋が音楽プロデューサーの平井洋に語りかけた。
「楽譜に書き込んであった第7倍音が聴こえた!なかなかこうはいかない。」
簡単には弾き出せないこの音を
高橋の目の前で、漆原が響かせてみせたのだ。
偉大な作曲家の耳は、それを聴き逃さなかった。


この比類の無い音楽の技は、その心とともに、
漆原から瀬木へと、引き継がれていく。
ひとつの点が線になるように。



平河町ミュージックス実行委員会 ワーキンググループ   木村佐近

2010年10月23日土曜日

平河町ミュージックス第四回公演 笹久保伸 「高橋悠治作品など~多種類の調弦によるギター音楽」を聴いた

演奏会は不思議な調弦による響きで、幕を開けた。
1968年から2010年にわたる高橋悠治のギター作品。
その難しく魅力に富んだ旋律を、笹久保の指先が見事にはじき出す。


「メタテーシスⅡ」、「重ね書き」に聴衆が引き込まれた頃、
ゲストの金庸太が演奏に加わり、
「しばられた手の祈り」が始まる。





さらに「ジョン・ダウランド還る」には、
笹久保のギターの音色に、高橋悠治自らが朗読を添えた。









贅沢な時間が流れる。

高橋悠治の余韻が空間に漂うなか、
笹久保が全く異なる響きを持ち出した。
3年間単身ペルーに住み、アンデスの村々を旅しながら、
音楽とペルーの人々を見つめた笹久保の「3つのペルー伝承音楽」。
静けさと激しさが交錯するペルーの人々の息遣いが、
笹久保のギターから聴こえてくるようだ。

身近にある「紙切れ」、「綿棒」、「ハサミ」をギターに付けることで、
いつもと違う音を与えた作品「プリペアドギターの為の3つ」は、
想像を超えた美しい響きを放った。

笹久保は、それぞれの楽曲の合間に、
曲目ごとに異なる複雑な調弦を行った。
調弦をしながら、笹久保が語る言葉の端々から、
音楽への真摯な思いと、その温かい人柄が滲みだし、
聴衆を笹久保の世界に引き込んでいく。

演奏会が跳ねた後、白い空間はワインの香りに包まれた。
クラシック・ギターの枠からはみ出しつつ、
ギターという楽器がもつ新たな魅力を引き出そうという、
笹久保の音楽にふさわしい名酒が選ばれた。

聴衆の輪の中で、
「いつもと違うところで弾くと、いつもとは違う音楽になった。」
笹久保が、そうつぶやいた。


平河町ミュージックス実行委員会   木村佐近

2010年7月17日土曜日

第3回を終えて(3)


プログラムをつくるとき、
前半と後半と、コントラストをつけよう、と考えていました。
前半は親しみやすく、
また、二つの楽器が「一緒」に演奏する、
「共演」のありよう、
息のあわせ、
というのが提示できれば、というのがあり、
一方、後半は、
高橋悠治作品のみにすることで、
ひとつの独特な空気をつくり、
音楽の聴き方が自然と変わってくるようなものになるといい、
というのがあったのです。
特殊な奏法、変わったひびきが駆使されるものではなく、
ちょっとした、微妙なひびきが、時のながれとともに感じられるような、
また、
音楽による「ドラマ」や「物語」ではない、
音楽による語り、語りかけの状態にふれてほしい、
とでも言ったらいいでしょうか。
二人の音楽家も、「あわせる」のではない、
そこでもうひとりが弾いているのを感じながら、
自分のやることをやり、そうした「あいだ」で音楽が生まれてくる。
そうしたこともありうる、と。


聴き手の方々のみならず、
コンサートにかかわっているスタッフの方々も、
こうした音楽のありようは馴染んでいない、
ちょっと不思議な印象を抱かれた、
かもしれません。
建物を設計する、家具をひとつの空間のなかに配置する、
そうしたお仕事をされている方々が、
音楽の、いろいろなありように気づいてくれたりすることも、
クリエイティヴィティというところ、
世界に何か新しいものをつくりだすというところにおいて、
何か刺激になっているのではないか、
などと考えるのは、勝手なおもいこみかもしれませんが。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年7月15日木曜日

第3回を終えて(2)


ヴァイオリン・ソロによる
《冷たい風吹く地上から》は、
ほかの曲とちがって、
階段をのぼったところにある中二階で演奏されました。
演奏者の姿はよく見えません。

音は「どこ」か、高いところから、やってきます。
右手で弓を弾きながら、同時に左手で弦をはじく。
弓の速度を変えて、音色が変わる。
からだのむきを動かし、ひびいてくる方角が変わる。
風が、音を動かしているのかも、
などと、あらためてタイトルを想いだしたりもして。

ハープによって演奏された
《さまよう風のいたみ》は、
もともとピアノのための作品です。
ハープの、
絃をはじくと、
音が生まれ、すぐ減衰し、短く余韻がのこる。
そのさまが、雨音のつづくなか、
雨音と同化したり、異化したりしながら、
一本の「うた」をつむいでゆきます。


演奏家の足下には、
6-7 メートルもの長さがあって、
すこしずつ色あいや紋様が変化してゆくキリムが敷かれています。
《Insomnia 眠れない夜》、
ハープはそのままの位置にいる一方、
ヴァイオリンが動きます。
弾きながら、歩く。
歩きながら、弾く。
キリムのほぼ両端、二カ所に譜面台をたて
ときどき移動します。
音場、とでも呼ぶのでしょうか、
音のひびくところ、方向が変わります。
そして、
音の向き方とともに、
演奏家のうごきに、敷いてあるキリムにも
聴き手の視線はむかいます。

コンサートホールでの、
高くなったステージと客席は分離しています。
それでいながら、
ここではもっと身近に楽器が、演奏があるのです。
その分、
ふつうには耳にはいらない音もしてきます。
とても小さな弓が弦にふれる音、
ちょっとしたノイズ、
ヴァイオリンのむきが変わると、
耳も、お、と反応するのです。
演奏家のうごきによる空気の変化。
複数の演奏家が一緒に音楽を奏でているとき、
こういうことが音だけではなく、
肌でもやりとりされているんだ、
というのがわかるのです。

もうひとつ、大切なことがあります。
先にも記したように、
《Insomnia》は、ふつう、ステージ上で演奏されるわけです。
客席のうしろから、
ヴァイオリニストが演奏しつつ歩いてきて、
また、
最後には帰ってゆく、
というような空間性を味わうことはできません。
聴き手が、ヴァイオリンはどこ?とふりむいたり、
さっきは左のほうから音がして、
いまは、正面から音がする、というようなことも、ないのです。
《Insomnia》をこんなふうに体験できたのは、
今回がはじめてではないでしょうか。

 平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年7月13日火曜日

第3回を終えて(1)


ヴァイオリンとハープという組み合わせで何ができるか、
今回は選曲もおこなっていたのですが、
当日はかんたんな進行とともに、
高 橋悠治作品が演奏される前に、
詩の朗読をする役割も果たさなくてはならなくなりました。
前日のリハーサルのとき、作曲者に指示されたた め、です。

今回演奏された3つの作品、
《冷たい風吹く地上から》《さまよう風のいたみ》《Insomnia 眠れない夜》
は、 それぞれベルトルト・ブレヒト、高銀、オシップ・マンデリシュタームの詩から
タイトルがとられています。
音楽そのものと詩との関係はそれ ぞれ異なっていますが、
たしかに、詩があると、すこし聴き方も変わるかもしれません。

当日は、午後になってから雨が降り始め、
だ んだんとつよくなり、
コンサート後半では、びっくりするくらい大きな音で
ガラスに雨粒がぶつかっていました。
ですから、
詩 の朗読をするにしても、
声があまり大きくなく、ひびきもしないため、
聞こえなかった方も多くいらしたかとおもいます。
(申し訳あ りませんでした……)

雨が大きな音をたてる、
それでも、かならずしも音楽を邪魔するものではないのだな、
と気づかされた りもしました。
むしろ、
雨音のなかにある、雨音とともにある楽器の音、
持続する雨音のあいだをぬって奏でられている音楽を
耳 は、ふつうに聴いているよりもずっと積極的に、
たどっていこうとします。
音楽を聴く、という行為を、
こうした状況だからこそ、捉 えなおすことができたように、
個人的には感じていました。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年7月12日月曜日

呼びかけあうこと/佐野吉彦

過ぎ行く春か、繁れる緑か。平河町ミュージックスの春公演は、豊かな手ごたえをもたらしつつ、完結した。まずは、第1回の沢井一恵さん。さまざまな箏を、位置を変えて弾きわけ、空間に独特な香気を漂わせていた。第2回のクラリネットの草刈麻紀さんをリーダーとする木管アンサンブルとこんにゃく座の歌役者のおふたりは、空間に愉悦と弾みを与えてくれた。ロゴバの持つ場所の面白さを発見して、あるいはそれに触発されて、この場にしかない新しい表現が生み出された印象がある。じつに、かけがえのない、楽しい時間を味わうことができた。

この平河町ミュージックスは平井洋さん、小沼純一さん、西川純一さんと手づくり・手探りで始めたシリーズだったが、運営スタッフに何かと汗をかいてもらった。それぞれに対し呼びかけあい、奮戦しながら呼吸をあわせていったところは、まさに室内楽をつくりあげるプロセスだ。さて、この空間にはステージがない。どこまでが奏者でどこまでが観衆なのかが画然と分かれた風景ではない。空間がやわらかく全体を包み、家具が身体をくるんでいるものだ。その一方で、音楽のクオリティの高さにおいて、奏者と観衆とのあいだにきちんとした線が存在している。共有しながら、お互いへの敬意を失わない空気が、回を重ねてできあがりつつあるように思う。

さて、第3回は漆原啓子さんのバイオリンと片岡詩乃さんのハープ。雨が降りしきる夕べ、雫の音と濡れそぼる街角を背景に置きながら、繊細な音のつらなりが空間に満たされてゆく。後半の高橋悠治さんによる3曲では、過去2回同様、空間を水平垂直に移動しながらの表現が試みられた。これら高橋さんの音楽には「多様な声」が重なりあっている。それぞれの曲において高橋さんと響きあった詩が小沼さんによって朗読されたが、作曲家も詩人も、奏者もお互いにていねいに呼びかけあっていたように思われた。この場における試みには高橋さんが宿す精神が欠かせないことをあらためて感じた。この場から呼びかける声はどこまで届くだろうか。平河町ミュージックスは、この世界をともに生きることの意味を問いかけることになったと言えるかもしれない。こりゃ重大なミッションだぞ。

2010年7月10日土曜日

平河町ミュージックス第三回公演 漆原啓子、片岡詩乃 ヴァイオリンとハープ~華麗さとかそけさと を聴いた

前日、漆原啓子、片岡詩乃と今回の演目の作曲家高橋悠治が、リハーサルに臨んだ。
念入りに高橋が指示を出す。
「同じテンポにしないでつまずきなさい」「ただ繰り返すのではない」。
偉大なソリストたちは、作曲家の言葉に耳を傾け、一つ一つの音を確かめていた。
厳しい音楽の世界が垣間見えた。
準備は万端。


本番当日、梅雨空。
開演の前から、ガラスのむこうの雨足がしだいに強くなる。
スタッフに緊張が走った。
しかし、漆原のストラディバリウスと片岡のハープの圧倒的な響きが雨音を飲み込んだ。
白い空間が、サン=サーンスの幻想曲で満たされたとき、雨音は感覚の外に消えた。
19世紀末から21世紀までの、イベール、ダマーズ、中島ノブユキ、ペルトの作品を二人の楽器がゆるやかにたどっていく。

小沼純一が「冷たい風吹く地上から」の詩を語り、中二階から漆原の音色が聴こえ始める。
高橋悠治が階下の客席で目を閉じていた。
作曲家は自らが手がけた楽曲が、偉大なソリストによって音に変えられる瞬間をどのように感じているのだろうか。 穏やかな高橋の表情から、その深い思いが伝わってくるような気がした。


「さまよう風の痛み」、ハープのソロが続く。
高橋作品は、前衛的でありながら、優雅な気品にあふれている。
全身をつかってハープを奏でる片岡の動きと音色を、観客が丁寧に追う。

「Insomnia 眠れない夜」、ハープの響きに、場外からヴァイオリンの音が重なる。 漆原は場外から聴衆の中へと移動しながら華麗な音色を響かせる。 漆原の口元から詩の言葉がこぼれ出る。 二つの楽器の響きと、言葉の素晴らしい融合。そして雨音さえも味方につけて、聴衆は感動のるつぼの中に引き込まれた。
高橋悠治の温かい目が二人のソリストを見つめていた。








演奏後、演奏者と聴衆は、演目にあわせてセレクトされたスパークリングワインを楽しんだ。
極上の音楽の余韻で、「眠れない夜」にならないように。







平河町ミュージックス実行委員会ワーキンググループ 木村佐近

2010年6月19日土曜日

平河町ミュージックス第二回 草刈麻紀公演 萩京子VS木々のさざめき を聴いた

梅雨空の雨の音をガラス越しに感じながら、
草刈麻紀のクラリネット、森枝繭子のオーボエ、大澤昌生のファゴットの木管のやわらかな響きが聴衆をとらえた。
おだやかな演奏会のはじまり。

歌役者の彦坂仁美と佐藤久司の歌声と所作が加わる。


人のこころの動きを言葉におきかえた 俵万知や宮沢賢治の詩。
その言葉達に作曲家萩京子が、美しい音をあたえたソング集。
彼らは楽しそうに音を紡ぎだし、
ロゴバの白い空間を余すところなく使いながら歌い上げる。

客席の片隅で、萩京子のやさしいまなざしが見守る。

白い空間が、暗い闇に包まれた。

吹き抜けに浮かんだ中二階から、
メシアン作曲、世の終わりのための四重奏曲「鳥たちの深淵」が聴こえ始めた。
悲しげな旋律。
草刈のクラリネットの音が深い闇の彼方から降りてくるようだ。


白い空間が、明るさを取り戻し、再び宮沢賢治の世界に。
宮沢賢治が妹の死を乗り越えたときにつくった
詩集「春と修羅」第二集 「薤露青」(かいろせい)。
薤露とは、ラッキョウの葉にたまった露の意味で命のはかなさをあらわすもの。
賢治の言葉が美しい旋律と透き通った歌声に乗る。

白い空間は、極上の響きに包まれた。

演奏後、出演者と聴衆は、余韻に浸りながら、ワイングラスを傾けた。
ガラスの向こうの平河町に、そのさざめきがあふれ出していた。






平河町ミュージックス実行委員会ワーキンググループ 木村佐近

2010年6月10日木曜日

コンサートやライヴに行くとき、
ほとんどの場合は「お客さん」として、です。
でも、年に何回かは、
わずかなりとも主催者「側」、になったりします。
平河町MusicSでは、主催者として、初回のステージに接していました。
ゲネプロ-----本番とほとんどおなじようなかたちでおこなわれる、
いわば最後の、通し稽古、ですね-----も途中から参加し、
開場すると、受付周辺に立ち、
開演中もそのあたりから全体を、
聴く、というより、見渡していました。

演奏について、音楽について、はともかく
(予想どおり、でありつつ、予想「以上」でもありました)、
わたしが感じていたのは、会場の雰囲気、空気であり、
お客さまたちの物腰、表情でした。
演奏、音楽を、という以上に、
演奏、音楽が、この場とともにあり、
この空気のなかにあることを楽しんでいらっしゃる、
そんなふうに感じられたのです。
ガラスごしに届いてくる外のノイズも、
うるさく、邪魔してくるもの、というより、
箏の音・音楽にむしろ耳をそばだてるきっかけのよう、
あるいは、
外の音というのはこんなふうになっているものなのか、
と気づかせてくれるよう、
だったのです。
これはわたしのおもいこみでしょうか?

もうひとつ。
いわゆるコンサートホールではない、
北欧家具とキリムをおいている店で、
スタッフは全員、やったことのないことをしている、
というのもあります。
ときには戸惑ったりという表情もないわけではありません。
ぎこちなさだってあります。
それでいて、どこか楽しんでいる、
おもしろがっている、というと語弊がありそうですが、
通常の業務とは違った緊張感とリラックスが心身のなかにある。
それを、身近にわたしは感じていました。
また、
ROGOBAと安井建築設計事務所と、
隣りあったビルで働いていながら、
ほとんどは縁のない会社どうしで仕事をしている社員の方々が、
ここではコンサート運営に、携わっているのです。
まったくの無償、で。
皆さんは、いちおう、実行委員に名をつらねているのでわかっていますけれども、
業務以外にもかなりしなくてはならないことがあります。
そのうえで、10人前後の人たちが一緒に音楽の場をつくっている。
音楽がたとえ好きであったとしても、
開演中にも席を占めて、集中して演奏を聴くわけにはいきません。
それでいながら、ただの仕事、業務ではないかたちでかかわり、
役割分担はあるにしても、ひとつの場をたちあげてゆく。
いいなあ、と、わたしはおもっていました。
こういうかたちで何かに関わることができる、
参与できる、というのが、音楽の、いえ、ひとのいとなみなんだなあ、と。

わたしもその一部に参与できているのか、
いい表情になっていたかどうか、は、わかりません。
そうなっていたらいいな、とおもうばかりですけれど。

平河町ミュージックス実行委員 小沼純一

2010年5月29日土曜日

平河町ミュージックス 第一回公演 平河町の街かどで 沢井一恵 を聴いた

十三絃箏から響く八橋検校作曲「六段」の華麗な音色の余韻に酔いしれる間もなく、
場内の空気が一変した。
聞き耳を立てる。
紀元前5世紀中国の墳墓から出土した五絃琴を国立劇場が復元したという楽器から、高橋悠治作曲「畝火山」の素朴でかすかな音が聴こえてくる。
沢井一恵のつぶやきにも似た言葉が、その音を撫でるかのように重なる。

かすかな音を聴き逃すまいと百人余の聴衆の耳が一斉に沢井の音を追いかける。
その時、いままで、聴こえなかったものが聴こえはじめる。
聴衆が凝らす息の音、ガラス越しに走り去る車の音、道行く人の声、
いつもなら騒がしく感じる音達が、沢井の音と言葉に素直に重なる。

紀元前の中国の人々の前で、この楽器は、絃の音を聴かせるだけでなく、その音の背景にある静寂や木々のざわめき、あるいは神々のつぶやきまでも、人々に聴かせていたのではないか。
敏感になった聴覚に痛みさえ感じながら、そう思った。

沢井は、曲目ごとに異なる絃を使い、演奏する場所を移動した。
北欧家具に囲まれ洗練された空間に、曲目が変わるごとに、それぞれ全く別の世界が現れた。
絃に手の届く位置で、聴衆はいつもとちがう沢井の世界に引き込まれた。



そして、ガラスの外には、いつもの平河町があった。











平河町ミュージックス実行委員会ワーキンググループ 木村佐近